マリーアントワネットの美学と中世肖像画での画像修正
豪華絢爛、絶世の美女のイメージのあるフランス王妃マリーアントワネット。

人目をひくような魅力的な顔立ちと天真爛漫な明るい愛らしさ。
周囲を魅了する気品のある物腰や身のこなし、
優雅な立ち居振る舞いで人を惹きつけてやまなかったと言われています。
彼女の美貌の最大の特徴はハプルブルグ家の特徴といえる美しい金髪と碧眼。

生まれ持った艶やかな真珠のような白く透き通るキメの細かい肌、
ほっそりとしているけれど必要なところはふくよかな姿態。

けれどハプスブルグ家特有の特徴には家系ゆえの難点もありました。
「ハプスブルグ顎」と呼ばれているくらい代々遺伝している「広い額・長い顎・鉤鼻・受け口」
歯並びや咬合も問題があったようです。
「彼女以上の美人は容易に見つけられるけれど、
彼女以上に美しい人はいない。」と周囲の人は言っていたようです。
彼女の肖像画を見て不思議に思ったことはりませんか?
ウィーン時代の肖像画とフランスに嫁いでからの肖像画、随分違った印象に感じています。
本当の彼女はどっち?
12歳のアントワネットの肖像画

19歳のマリーアントワネット

後の革命時に革命派のルイ・ダヴィットが描いた彼女の横顔のスケッチで見ると鉤鼻で顎が長めなので、
実際はフランスに嫁いでからの肖像画が近いのではと思います。
また実は、アントワネットには歯科治療の経験があるともいわれています。
アントワネットとルイ16世の政略結婚計画は、彼女が12歳の時にスタート。
ルイ15世に送った肖像画で歯並びの悪さを指摘され、
治療のため婚姻前にフランス人医師に歯列矯正の外科手術を依頼、
フォシャールの矯正器具(糸や布、針金)を用いた矯正治療を受けたとされています
(原理は現在の歯科矯正と同じような感じだそう)。
驚くことに史実によるとこの時代、肖像画は修正が当然。
何世代も続いていた習慣として、特に幼い頃の肖像画はお見合い写真として
お顔の修正が行なわれていたようです。
驚異のスタイル
アントワネットの身長は154㎝。W58~59㎝、B109㎝、
若さと美しさの盛りの彼女は、当時のモードに合った理想的な体型でどんな服も上手く着こなせたそうです。
王太子妃時代のマリーアントワネット

結婚後は様々な心のストレスもあり、王妃になってからの彼女の美への憧れは凄いものでした。
彼女は肋骨を下から二本位折って、コルセットで締め上げ細いウエストにしていたとか。
B90㎝、W48㎝、H90㎝という驚異的なプロポーション。
ウエストの直径は10㎝位しかなかったとか!

当時の理想のサイズは18インチ(約45㎝)男性が片手でつかめるぐらいが理想的だったといいます。
そんなマリー・アントワネットの食事は朝ケーキ、昼は肉や魚等の主食、夜は軽くスープ。
甘党の彼女はチョコレートドリンクとクグロフや焼きマカロンが大好物だったようです。
画像はLes Cadeaux Sinceres様からお借りしています
また、小顔に見せるために歯を抜いたりと、本当に美を追求するためには手段を選ばなかったと云われています。
18世紀のフランスに、初めて”歯科医”と名乗った人物、ピエール・フォシャールが現れました。
彼は歯科医学の祖を築いたとされていて”近代歯科医学の父”とも称されています。
・初めての矯正歯科医
・初めて上顎総義歯(上の入れ歯)の作成
・初めて歯周治療(歯周病の治療)を行う
・初めて歯牙移植を行う等
朝の習慣に入浴と朝食があります。ヴェルサイユ宮殿内の彼女の寝室に、
大きなバスタブが運び込まれ、お湯が注がれた後、ガウンをまとったまま入浴…
バスタブの蓋の上には、甘党の彼女の朝食として
チョコレートドリンクと甘いブリオッシュが置かれ、入浴しながら朝食をとります。
歯磨きをサボリ気味の彼女に宛てた母マリア・テレジアの手紙の中に、
『あなたは最近歯もろくにみがいていないそうですね。』書かれていたとあります。
当時のフランスでは肌が白ければ白い程美人ていわれていたため、アントワネットを筆頭に、
貴族の間でも肌も髪を手っ取り早く白くするために、小麦粉を頭からかけていたこともあるそうです。
更に白い肌に映えるという理由で、当時は貴族の間でつけぼくろ「ムーシュ」も大流行しました。

“つけぼくろ”は『つけています』とアピールすることが お洒落だったらしいので、
徐々に派手になっていき、形状も丸だけじゃなく、
星の形、月の形、ダイヤ形、ハート形といった わかりやすいものが好まれました。
また左の頬にハートがついていると婚約中を意味し、結婚すると右側につけるようになったとされています。
マリー・アントワネット式食事法はダイエットになる?
18世紀のフランスの宮廷では、
「朝にケーキ、昼は肉や魚等の主食、夜は軽くスープ」という食生活が送られていました。
甘党の彼女はクグロフとマカロンが大好物だったようです。
朝は血糖値が不足しており、神経細胞は糖分を必要としているそうです。
朝食を取ることで眼窩前頭皮質が高カロリーな食べ物を見た時の食欲が活発化するのを抑制。
代謝も良い朝はカロリー消費にも適っているといいます。
昼にバランスの良い食事をしっかり食べると、お腹が減るのを防ぎ、
間食がなくなるといいます。血糖値がゆっくり上がるGI 値が低い食材を心がけて食べると、
よりお腹もすきにくくなり、筋肉のもととなるたんぱく質を摂ることは筋肉量が減少や代謝ダウンを防ぎ、
冷え性や太りやすい体質になるのを予防してくれます。
アミノ酸が多い良質のタンパク質は、肝臓などの内臓の再生・修復にも役立っています。
逆にたんぱく質不足は、肌荒れなどの原因にもなってしまいます。
マリー・アントワネットが実際に食べていたと云われているスープは鶏、羊、牛などの骨をたっぷりと数時間煮込み、
それに野菜やハーブが加えられたものです。
王妃になってからの『マリー・アントワネットの典型的な一日の献立』
(朝食)プレーンヨーグルト、ナッツを加えた自家製ケーキの適度なスライスとミックスベリー。
(昼食)キヌアおよびミックスベジタブル 皮なし鶏胸肉やサーモンの切り身のライトスープ。
(午後のおやつ)ヒマワリの種とゴマとアーモンド一握り。
(夕食 遅くとも午後8時まで)サイドサラダ、鶏肉やチーズひとかけらのスープ。
アントワネットが作り出した流行
香水:フランスでは香水が流行っていましたが、
アントワネットの香りの好みは大きく異なっていました。
子供の頃から入浴の習慣に親しんでいたため、
香水は体臭を消すものではなく香りを日常的に楽しんでいたようです。
バラやユリなど香しい香りのある花や、
ローズマリーなどのハーブといった植物系の軽やかな香りの香水を好んで愛用していました。
当時のフランスでの香水の役割は『体臭を消す』ためのもので、
貴族はムスクのような動物系香料を使った濃厚な香りが主流でした。
中世以降、動物性のきつい香りが病気除けになるとされて、
貴族たちは香水玉に入れて持ち歩いていたんだとか。
王妃になってからのお気に入りの香水師は「ファージョン」。
ワインエキスを使って、バラ、スミレ、ジャスミン、ジョンキル、チュベローズなどの花を蒸溜したエキス水を創り、
そこへムスク、アンバー、オポナックスを加えます。
ファージョンはこれを「エスプリ・アルデン(熱烈エキス)」と呼びましたが
王妃は「エスプリ・ベルサン(染み入るエキス)」と呼んでいました。
アントワネットが別荘用に所望したプチ・トリアノン香水の核となるのは、イリス。
イリスはギリシア神話でゼウスの使者から名づけられ「奇跡の粉」とも呼ばれました。
ファージョンはすでにこのこうきな香のイリスを王妃の手袋用香水に使い、国王用の髪粉にも応用していました。
こちらは20歳の頃のルイ16世

また、ファージョンはイリスを使ってスミレの香りを再現することにも成功。
スミレの香りは、かつてのフェルセン伯爵との「消え去りし恋」も象徴していました。
宮廷の人たちも感化されて好みの系統が変わっていったといわれています。
服飾 髪飾り、衣装、靴などのファッション
華やかなファッションの世界観を貴族や特権階級に広げていったのが
マリー・アントワネットとデザイナーのローズ・ベルタン嬢。
アントワネットと一緒に新しいもの、趣向を凝らしたもの、贅を尽くしたものを作りました。

舞踏会では常に新しいファッションを披露し注目を浴びていたマリー・アントワネット。
そのおかげで、彼女の店「ル・グラン・モゴール」は
最新もモードを発信する店となり、大繁盛しました。
フランスでは年間36着のドレスを国庫から新調する習わしでしたが、
彼女の場合は約170着にものぼりました。
ちなみに、アントワネットの好みは少しくすんだ感じの色で植物柄。
一番好きな色はブルーグレーだったと言われています。
正装

舞踏会用

イギリス風、

シュミーズドレス、

田舎風


と様々なファッションスタイルを生み出しました。
肖像画の世界
特に彼女のお気に入りは「エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン夫人。」

貴族ではなく女流画家でした。
ルブランはロココから新古典主義の時代に活躍したフランスの美貌の女流画家で、
同じ女流画家のアンゲリカ・カウフマンとともに18世紀最も成功した女性芸術家です。
自らの容姿が極めて美しかったルブランは、描く被写体の容貌や性格を豊かな感性でとらえ、
そこで生まれる感情的反応をキャンバスに映し出す想像力の持ち主であったといいます。
常に実際の容貌より美しく描いていたようです。
アントワネットの初期と晩期の親友 ランバル公妃

全盛期のアントワネットの親友 ポリニャック伯夫人

ランバル公妃もポリニャック伯夫人もとても美しい人でした。
アントワネットは美を追及する傍ら、美しい人に憧れていたといわれています。
ヘアスタイル
盛り髪といわれたヘアスタイルは、
お抱え結髪師である「ジャン・レオナール」にすべて一任されていました。
「プーフ」という高く結い上げ、装飾品で飾り立てたロココ時代の象徴ともいうべき、
巨大なヘアスタイルを流行させました。
白さにこだわりのあったこの時期「髪粉」が流行りました。
このカラーリング剤の主剤はなんと小麦粉や白土、澱粉!
髪だけじゃなく、肌にもかけていたようです。
中にクッションを入れてボリュームを出し、高く盛って結い上げ、
崩れないようにポマードでしっかり固めます。

装飾はリボンやレース、キラキラ輝くジュエリーから
バラやカラフルな大きいダチョウの羽根を差し込んだりとエスカレートし、
最終的にはりんごなどの果物や、花瓶を載せてバラを挿したスタイル、人形、公園、帆船…
さらには生きた鳥をいれた鳥かごまでのせるように。
こんな感じだそうです。
まりー

盛髪ヘアの流行はのちに彼女が出産し、髪が薄くなったことで終息を迎えましたが、
次にレオナールは、カールを下へ垂らした「子供風」という
新たなスタイルで流行を作り上げました。


当時の平民はというと、不衛生で貧しく、子供は20歳までの生存は50%。
60歳までの生存は20%に満たないレベルの暮らし。
過酷な労働と飢え、硬い皮膚と深い皺の農民の女たち。
貧しく泣き叫ぶ赤子に母乳を与えることもできないくらい平民たちは貧困に疲労しきっていました。
フランスでパンが不足していた原因の一つとして、
貴族達が髪粉として小麦粉や澱粉などを使っていた事も不満の一部にあげられています。
こうした豪華絢爛の王族の浪費により国家を滅ぼしたといわれていますが、
実際は、王族の浪費は国庫からみて10%に満たなく、
国庫を空にしていった本当の理由は戦争の費用だったといいます。
※肖像画など特に記載していない画像については、Wikipediaからお借りしました。